おはようございます。なお吉です。
今日はいつものネタ的な書き方から方向性を変え、カンボジアで過去に起きた悲劇について書いていきたいと思います。
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シェムリアップから移動し、カンボジアの首都、プノンペンにやってきました。
カンボジアの観光資源はほぼシェムリアップに集結しているため、首都と言えども見るものが数少ないのがプノンペンの特徴。
では、なぜわざわざプノンペンまで足を運んだか。
それはクメール・ルージュの悲劇を、この目でしっかりと確かめるためです。
アンコールワット等、観光資源を中心に発展を遂げている最中のカンボジア。
ただ、アジア最貧国と呼ばれるこの国で、ほんの40年前に信じられない悲劇が起きたのです。
それがクメール・ルージュの悲劇。
その悲劇を後世に伝える場所がプノンペンには2箇所あります。
S21(トゥール・スレン虐殺博物館)とキリングフィールドです。
S21は拷問所、キリングフィールドは処刑場。
約4年間の間に300万人以上のカンボジア人が虐殺された悲劇の場所のひとつです。
当時人口800万人の国で300万人が殺される、しかも同胞のカンボジア人の手によって。
□悲劇の始まり
クメール・ルージュとは、ポル・ポトが率いた共産主義政権のこと。
共産主義を表す赤と、カンボジアの基になったクメール王朝からその名前が取られています。
※ポル・ポト
クメール・ルージュはベトナム戦争のとばっちりによる空爆や、大規模な飢餓が発生して憔悴していた王政統治から、民衆を開放するための新たなる政治的組織として民衆に歓迎されていました。
ただ、クメール・ルージュの目指した国は、「完全な共産主義社会」
経済があるから争い事が起こる。
そのため、全ての階級をなくし、個人の資産は全て没収。
学校や病院、工場を閉鎖。貨幣そのものを廃止。宗教も禁止。
このような経済的・近代的なものは全て排除し、国民全員が農民となり、「完全な共産主義社会」になれば、国民全員が幸せになれる。
そういう思想の下、カンボジアの統治を始めました。
ただ、そこに待っていたものは国民全員に対する農地での強制労働でした。
達成不可能な目標を掲げられ、それでもクメール・ルージュ監視の下、国民は働くしかありませんでした。
そんな状況下の中、クメール・ルージュは医者や法律家、教師をはじめとした知識人を都市部に呼び寄せます。
理想国家を作るために、彼らの力を貸してほしいと。
知識人たちは歓喜したことでしょう。
国の発展のために力を発揮できると。
辛く苦しい農地での強制労働から解放されると。
ただ、それは間違いでした。
クメール・ルージュは知識人を「反乱を起こす可能性のある人々」として次々と処刑していったのです。
同じカンボジア人である彼らを。
ただ、当然知識人たちを何の罪もなく処刑することは道理が立たないことから、先ずは全国に設置した拷問所に連れて行かれます。
その代表格こそ、S21(トゥール・スレン虐殺博物館)でした。
□S21(トゥール・スレン虐殺博物館)
S21(トゥール・スレン虐殺博物館)はプノンペンの市街地にあります。
はい、訪問時はポケモンGOは止めましょうね。
今は博物館とはいえ、元々は拷問所であったんですから……
S21は元々はプノンペンにある、ごくごく普通の高校だったそうです。
今でも学校の校舎と言われれば、すんなりと理解出来ます。
ただ、ここで行われていたのは、教育ではなく嘘の調書の作成でした。
そう、処刑の理由の作成でした。
ここに連れて来られた知識人たちは毎日、拷問を受け、やってもいない罪を認めさせられました。
物を盗んだ。クメール・ルージュに対して不満を述べた。はたまた昔、アメリカに住んでいて、CIAの諜報員をしていたといった突拍子もないことまで。
彼らは罪を認めるまで、何度も、何度も拷問されました。
多い日では1日に3回も拷問を受けた人もいたそうです。
逃げようにも見張りが常にいる上、有刺鉄線がS21全体を覆っていて、脱出は不可能でした。
彼らはこのようなベッドに足をつながれ、拷問を受けていたそうです。
また、彼らが拷問を受けている間、寝泊まりをする場所も、限られたスペースに押し込まれていたようです。
また、部屋の壁は貫かれ、常にクメール・ルージュの兵士が監視している状況だったそうです。
また、元は学校の遊具であった機器でさえ、クメール・ルージュの手によって拷問器具として使わせていたそうです。
※これは目隠しをして両手を縛って釣り上げられ、気絶したら糞尿の入ったこの壺に顔ごと突っ込まれるといった拷問に使われたそうです。
こうして拷問を受けた知識人たちはやってもいない罪を認め、処刑対象者とされていきました。
当然、拷問に耐えきれず死んでいった人々も数多くいたそうです。
※S21にて拷問を受けた人の一部
ここで疑問を持たれた方もいるかと思います。
この悲劇の中で処刑された人々を最初に”医者や法律家、教師をはじめとした知識人”として紹介しましたが、はたして人口800万人の国で300万人もの人がこれらの職に従事していたかと言えば、あり得ない数字ですよね。
そう、この悲劇の更なる悲しいところは”知識人”として扱われた人の範囲が無限大に拡大していったことです。
芸能人、僧侶に始まり、文字が読める者、美男美女、海外への渡航歴がある人、
挙句の果てにはメガネを掛けている人も知識人として拷問・処刑の対象になっていきました。
想像出来ますか?
メガネを掛けているだけで、クメール・ルージュの思想に害をなす知識人。
もはや偏見でしかないです。
これは虐殺を繰り返す中で、クメール・ルージュ側も、もはや誰も信用出来なくなってきていたのだと思われます。
クメール・ルージュ側の人間でも不平不満を言ったり、言ってなくても言ったと密告されると虐殺される側にすぐさま入れられたそうです。
「罪人を逃すことは、罪のない人を裁くことより重罪である。」
ポル・ポトの言葉だそうです。
この理論では、もう信じれるのは自分だけ。
あとは殺してしまっても敵かもしれなかったので別に問題ない。
そのようなおぞましい考えに行き着いてしまいます。
そのため、知識人として捕らえられ、拷問を受ける人が膨れ上がっていったのです。
※拷問時の様子が描かれている絵
そして、そんな罪のない彼らに罪状が作られ、次に、いや最期に連れて行かれた場所が、キリングフィールドです。
□キリングフィールド
キリングフィールドはプノンペンの市街から南方へ数キロ行った場所にある、のどかな公園です。
元々は近辺に住んでいた中国人の死者を弔う場所として使われていたそうです。
そこがクメール・ルージュの進行後、虐殺を行う処刑場として使われるようになりました。
本当にのどかな公園です。
正直、訪れた際も本当にここでそんな悲劇が行われていたのか、信じられませんでした。
ここには先程ご紹介したS21から罪状の作成出来た人が送られてきたそうです。
目隠しをされ、どこに連れて行かれるかもわからず、不安で押し潰されそうになっていたことと思います。
処刑は送られた人から順次行われたそうです。
ただ、クメール・ルージュは弾薬を買う費用がなく、処刑は繰り返し利用可能な斧やナタ、鍬やスコップで行われたそうです。
想像も出来ません。
斧やナタ等の”凶器”では人は殺害出来ても、一撃で致命傷を与えることは困難だと思います。
つまり、ここに連れてこられた罪もない人々は、拷問で心身ともに疲弊した上で、何度も、何度も痛み・苦しみを味わった上で絶命していったことになります。
また、こちらのスペースを見てください。
このドッジボールコートより小さなスペースには、多くの人の遺体が無造作に埋められていたそうです。
キリングフィールド内にはこのような掘り返された場所が多数あり、全てで2万人以上の人がこれらに投げれられてたそうです。
遺体の腐敗で土は盛り上がり、発見当時は酷い異臭が広がっていたそうです。
また、この木を見てください。
この木はキリングフィールド内に何本も生えている木です。
ここで、断末魔を上げられては困るクメール・ルージュは、この木の幹にある鋭利な木の皮で、知識人たちの喉を切り、声を上げられないようにしたそうです。
また、場内にはクメール・ルージュの革命歌が昼夜問わず大音量で流され、外に殺害する際の騒音や断末魔が漏れないようにしていたそうです。
殺された彼らが最期に聞いた音は、大音量の革命歌と、それを動かすディーゼル発電機の音だったのではないでしょうか。
また、ここはクメール・ルージュ内での裏切り者とされた人々の遺体が埋められていた場所です。
きっとクメール・ルージュの理念に疑問を呈した人、何も言っていないのに密告され、殺害された人もいると思います。
そんな彼らを他の兵士たちへの見せしめのため、166人もの首のない遺体で晒されていたそうです。
また、先に進むと、またも屋根に覆われたスペースがあります。
ここは女性と幼児の遺体が入れられていた場所です。
知識人は当然、男性だけでなく、女性も対象とされました。
また、復讐を恐れたクメール・ルージュは、知識人として連行した人の家族もろとも虐殺して根絶やしにしていったのです。
「雑草を取り除くには根こそぎ」
これもポル・ポトの言葉だそうです。
そのため、女性や子どももここで殺害されました。
ただ、ここに埋められていた女性の多くは服を着ていなかったそうです。
そう、殺害前に強姦を受けていたのです。
カンボジア女性は内向的な人が多く、今でも海やお風呂に入る時には服を着たままの人が多いそうです。
そんなカンボジアの女性に対し、服を脱がせ、強姦した後に殺害する。
もはや人の所業とは思えませんでした。
また、大きな木があります。
この木はキリングツリーと呼ばれています。
普通の木です。
ただ、クメール・ルージュの兵士は幼児の足を持ち、頭をこの木に打ち付けて殺害していたそうです。
それも母親の目の前で。
この木を目の前にし、この話を聞いた時、正直ショックのあまり動けませんでした。
母親は目の前で生まれて間もない自分の子どもを殺害され、強姦され、殺されていったのです。
なぜ、同胞に対して、クメール・ルージュの兵士たちはここまで酷いことが出来たのか。
それは、クメール・ルージュの兵士のほとんどが、13歳程度の子どもだったからです。
なぜ、子どもがこんな残虐な行為に徴用されたのか。
当時のカンボジアの教育レベルは非常に低く、農村部のほとんどの子ども達は学校に行っていなかったそうです。
何の教育も受けていなかった点に目を付けたクメール・ルージュは、農村部から彼らを徴用・洗脳し、クメール・ルージュに忠誠を誓う兵士にしていったのです。
そのため、クメール・ルージュからの指示が絶対であり、何が善で何が悪かもわからず、拷問・処刑に携わっていたそうです。
なので、クメール・ルージュの兵士たちも許されざる加害者である一方、クメール・ルージュの政治的策略の被害者でもあるのです。
話を戻します。
キリングフィールド進んでいくと、最後に慰霊塔に辿り着きます。
ここにはキリングフィールドで亡くなった方で、調査が完了した人の頭蓋骨が陳葬されています。
また、彼らがどのようにして殺害されたかも示されています。
※ここは撮影可能です。
17mある慰霊塔にずっしりと詰められたその頭蓋骨の量に圧倒されました。
その一つ一つに命があり、人生がありました。
それが政治的理由だけで、何の罪もない彼らが殺されなければならなかった状況に、ただただ悔しさと辛さを感じるばかりでした。
旅ブログを読んでいるとこの地に訪れた人により、既に多くの情報を知ることが出来ます。
それでも、僕は自ら感じ、学び、その地の空気に触れることを望み、ここにやってきました。
今はその行動を取って正解だったと思っています。
もちろん、全く楽しい場所ではありません。
ただただ、胸が痛いだけの場所です。苦しいです。
それでも実際にこのような悲劇が起こったこと。それもたった40年前に。
それを直に触れて知ることが、今を生きる僕達に出来る、殺害された方への唯一の鎮魂のように思えます。
もちろん、今の日本で同様のことが起こるとは考え難いです。
ただ、世界を見回せば、同じような同一民族による虐殺行為は数多く見受けられます。
歴史から学ぶ。
一人一人では微力かも知れませんが、一人でも多くの人がこの地で起こった悲劇から学ぶこと。
これこそがこのような悲劇を繰り返させない唯一の方法のように感じています。
なので、ぜひカンボジアに行かれる方は、シェムリアップだけでなく、プノンペンのこの負の遺産にも足を運んでもらえてば嬉しいです。
僕もこれからの世界一周では、世界の素敵な部分だけでなく、見たくもない暗い過去の部分も訪れ、何か学び取れるような旅にしたいと改めて感じたプノンペン訪問でした。
ではでは、今日はここまで!お付き合い頂き、ありがとうございました!
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苦しい!ただただ目を背きたいくらい苦しい。でも目を背いてはいけない。
はじめまして。
ここにはずっと前に行ったことがあったので、興味深く見させてもらいました。
ここは考えさせられる場所ですね。
ただ、「300万人」という数字は事実かどうか確認したほうがいいと思います。
音声ガイドでそう言っていたのだと思いますが。
では、良い旅を。
返信が遅くなり、申し訳ございません。
300万人はご指摘の通り、音声ガイドからの情報です。
犠牲者の数は諸説あるようなので、本記事では音声ガイドの情報を記載しました。